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第九章 近世の文芸と信仰
第一節 浮世絵
(一)「浮世絵」の誕生
憂き世から浮き世へ 戦国時代、無常の世を意味する「憂き世」という世界観があった。江戸時代に入って、その「憂き世」からこの世を謳歌する生き方を示す「浮き世」へと、世界観が転換してきた。元禄年間(1688-1704)、その変化は絵画の世界にも影響を与え、新しいジャンルが登場した。当世風の大衆的な絵画「浮世絵」の誕生である。
大衆向けの商品 今日、派手な色で人の目を奪う浮世絵は美術品として有名である。しかし、江戸時代には、浮世絵は大衆向けの商品であった。人が集まるところには浮世絵を売る店があり、一般大衆はそれを気軽に買い求めた。それまでの絵画は肉筆画といった一点のものがほとんどだった。そのため、高価なことから主に公家などが楽しむものであった。その後、版画を使って同じ絵柄のものを安価で大量に生産できるようになった。そのことによって、浮世絵は急速に庶民の間に広がった。
(二)浮世絵の発展
初期の浮世絵 浮世絵によく用いられた題材は美人や歌舞伎役者、花魁(江戸吉原の遊女なかでも上位のものの称)、力士、風景などであった。初期の浮世絵は都市の「遊び」の世界、とりわけ遊廓や芝居町を代表とする「悪所」の非日常の世界を描くものが多く、美人画と役者絵が中心であった。
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学習ポイント
- 浮世絵の由来と展開
- 近世文学の主要なジャンル
- 貸本文化
- 近世の民間信仰と新興宗教
主題の多様化 享保年間(1716-36)以降、悪所として隔離された世界に対して、現実の様相に対する関心が高まってきた。市井の庶民風俗を浮世絵の題材に用いたのは、そうした傾向の現れである。そして、顔を中心に役者などの人物の上半身だけを描く、「大首絵」という新たなジャンルも現れた。そうして、浮世絵はさらに主題の多様化を迎えた。天保年間(1830-44)に、風景画と花鳥画というジャンルが確立し、葛飾北斎(1760-1849)と歌川(安藤)広重(1797-1858)らの諸名作が次々と発表されていった。
幕末の浮世絵 19世紀に入った幕末に、開港した横浜の異国的な風俗を描写した「横浜絵」や、ニュースを速報する時事報道画にも、浮世絵は大胆に主題を展開させ、大きな役割を果たしていた。
(三)浮世絵の技法と色
菱川師宣 浮世絵という用語は、浮世絵の祖と言われる菱川師宣(?-1694)が活躍中の天和年間(1681-84)の頃に定着した。師宣はそれまでの墨一色の墨摺絵に、赤色の鉱物性の顔料によって肉筆彩色を施した「丹絵」で、美しさを際立たせることに成功した。そして、丹絵は紅という赤色の植物性染料を基調として彩色する「紅絵」へと発展した。さらに、版画技術の向上に伴い、墨のほかに紅や草色など2、3色を複数の版で摺り出す技術が生まれた。それは「紅摺絵」と呼ばれて流行した。
鈴木春信 鈴木春信(1725-70)は紅摺絵の技術をもとに、1765(明和2)年に版木を摺り重ねる技術を開発し、多色摺版画を作った。その豪華な美しさから錦絵と呼ばれ、後に浮世絵版画の代表的名称となっ
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た。錦絵は、多色摺りに摺りあげるのに手がかかることから、当初主に金持ちの風流人たちが楽しむものであった。しかし制作技術がさらに向上し、やがて大量生産されるようになると、広く一般大衆に親しまれるようになった。
浮世絵版画の制作には、下絵を描く絵師、板木を彫る彫り師、そして摺り師が必要である。複雑な工程の分業体制の中で、それぞれ自前の力を発揮して、はじめて工芸的美術品とも言える浮世絵版画を完成させることができたのである。
(四)代表的な浮世絵師
先に述べた浮世絵の作者のほかに、美人の群像画を得意とした鳥居清長(1752-1815)や、役者の似顔絵を得意とした勝川春章(1726-92)などがいた。また、喜多川歌麿(1753-1806)と東洲斎写楽(生没年未詳)らは、美人や役者の大首絵を多く描き、一世を風靡した。
第二節 近世文学の諸ジャンル
(一)仮名草子から草双紙へ
仮名草子の流行 江戸時代には様々な出版物が刊行された。17世紀の出版の中心地は京都、大坂などの上方であった。江戸の書店も、当初は京都の有力な本屋の出店が中心であった。しかし、元禄ごろから江戸の出版業界が勢力を広げ、18世紀半ばにその勢いは上方のそれを凌駕するようになった。
17世紀前半から中ごろにかけて、「仮名草子」がはやっていた。仮名草子とは、中世からの系譜を引く平易な仮名文で書かれた小説のことである。内容は恋愛や娯楽、そして教訓物、評判記(遊女・役者の容姿・演芸や相撲、名物などを批評した書物)、名所案内記(各地の名所の景観・由緒・交通などを解説した書物・パンフレット)など多岐にわたっていた。
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庶民の読み物 本格的な庶民の読み物として、井原西鶴(1642-93)が刊行した浮世草子『好色一代男』(1682)が評判となった。その後、西鶴はさらに数々のベストセラーを量産していった。西鶴の『好色一代男』『好色五人女』をはじめとした好色物、『日本永代蔵』や『世間胸算用』などの町人物は、100年近くにわたって上方で人気を博した。
草双紙の登場 江戸では延宝年間(1673-81)に、庶民に好まれた通俗的な読み物として、草双紙が登場した。1冊は5丁(10ページ)からなる。各丁に絵があり、その余白に仮名の本文が入る。今日の絵本に近いものであった。表紙の色や製本の仕方によって、赤本・黒本・青本・黄表紙、そして合巻などの種類がある。赤本は教訓を目的とした子供向けのおとぎ話が多かった。黒本・青本は軍記や歌舞伎のストーリーを読み物にしたものであった。
黄表紙 他方、黄表紙は成人を対象にして字が多くなり、滑稽や洒落を売り物にした黄色表紙の読み物である。代表作は恋川春町(1744-89)の『金々先生栄花夢』(1775)をはじめとして、戯作者山東京伝(1761-1816)の『江戸生艶気樺焼』(1785)や、朋誠堂喜三二(1735-1813)の『文武二道万石通』(1788)などがあった。
合巻 合巻は黄表紙が長編化したもので、従来5丁1冊のものを数冊で1冊として合本したことから、そのように呼ばれた。内容は伝奇色の強い物語が多く、敵討ちや御家騒動が取り上げられた。歌舞伎を小説化したものもあり、華麗な表紙・挿絵が読者の関心を引き付けた。式亭三馬(1776-1822)の『雷太郎強悪物語』(1806)は敵討ち物の代表作で、黄表紙から合巻への橋渡しの作品とされる。
合巻の代表作は柳亭種彦(1783-1842)の『偐紫田舎源氏』(1829-42)である。38編まで出版された(全40編)。この作品は、『源氏物語』の舞台を室町時代に移して翻案したものである。そして、挿絵は歌川国貞(1786-1864)が描いた。11代将軍家斉(1773-1841)の大奥生活を諷刺したものとして、天保の改革において処罰されて絶版となっ
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た。以後、合巻はだんだん長編化して、明治のはじめまで大衆向けの読み物として出版され続けた。
山東京伝 本名岩瀬醒、江戸深川の質屋に生まれ、浮世絵師から出て黄表紙へ進出、さらに洒落本の売れっ子作者となる。1791(寛政3)年の筆禍事件の後、読本に転向し、数々の傑作を残した。
(二)読本
読本の登場 18世紀の半ばごろに、絵を主体とした草双紙に対して、文章を中心とする大人向けの読み物として、読本が登場した。読本の発祥は上方とされていたが、後にその中心は江戸に移り、多くの作品が出版された。読本は、中国の白話小説(中国の口語・会話文で書かれた小説)や和漢の故実・歴史人物などを素材にし、多くが流麗な和漢混淆文で書かれた。空想的・伝記的な物語、そして因果応報や勧善懲悪の世界を描くものが多かった。
読本の素材 読本の元祖は都賀庭鐘(1718-94ごろ)の『英草紙』(1749)と言われる。白話小説を日本の歴史人物に置き換えた9つの短編からなる小説集で、漢籍を生かした文学的な強い文体を持ち、人物描写に優れている。国学者でもある建部綾足(1719-74)は、実際に起こった殺人事件に取材した『西山物語』や、中国の『水滸伝』から構想を借りて奈良時代の道鏡事件をモチーフにした『本朝水滸伝』を書いた。
なお、『水滸伝』は儒学者で荻生徂徠とも親しかった岡島冠山(1764-1728)によって翻訳がなされた(『通俗忠義水滸伝』〈1757〉)こともあって、以後『水滸伝』は読本の主要な素材の一つとして親しまれていた。
都賀庭鐘に漢学と医学を学んだ上田秋成(1734-1809)は、師の作風を受け継ぎ、9つの短編からなる怪異小説集『雨月物語』(1768)を著した。独自の幻想的な世界を描いたこの作品は、単に怪異の描写にとどまらず、人間性の真実を伝記的な事件を通して描き出している。また、秋成の生前には出版されなかったが、10編の短編物語
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からなる『春雨物語』(1808ごろ)は、秋成晩年の思想を理解する上で重要な作品と評される。
出版の中心は江戸へ 19世紀に入って、読本出版の中心は上方から江戸へ移った。江戸読本の基礎を築いたのが、洒落本や黄表紙で多くの傑作を残した山東京伝である。1787(天明7)年から1793(寛政5)年にかけて、老中松平定信によって寛政の改革が行われ、奢侈禁止に伴って出版が厳しく取り締まられた。1791年に筆禍事件に巻き込まれた山東京伝は、洒落本から読本に転向して、ヒット作『忠臣水滸伝』(1799)や『昔話稲妻表紙』(1806)を著した。
京伝についで黄表紙作家から読本に転じて、ついに師匠の京伝を追い越して人気作家となったのが滝沢(曲亭)馬琴である。読本には、伝奇・任侠・伝説・史伝などを素材とする稗史物というジャンルがある。馬琴は、この稗史物が得意だった。1807年から代表作の一つ『椿説弓張月』(1807-10)を発表した馬琴は、長編史伝物の先駆者となった。以後、数々のベストセラーを著し、馬琴は人気作家として不動の地位を得たのである。
南総里見八犬伝 『南総里見八犬伝』は仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八徳を備える八犬士が、力を合わせて里見家を再興する話である。1814(文化11)年に刊行しはじめ、28年間にわたって精力を傾けて、ついに1842(天保13)年に完成した、馬琴のもう一つの傑作である。この『八犬伝』は室町時代の安房の国(今の千葉県南部)の豪族里見氏の再興話を背景に、八犬士が活躍する壮大な伝奇小説である。96巻106冊からなる一大長編で、『水滸伝』などを下敷きにした作品である。その特徴は、様々な説話や伝承を取り入れて複雑な展開になっていることと、勧善懲悪の思想を駆使したところにある。
都賀庭鐘 大坂の儒者・医者。近路行者という号で読本を書いた。中国語に通じ、謡曲(能の謡)や浄瑠璃を中国語訳したり、中国の『康熙字典』を校定して日本で出版したりした。
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岡島冠山 長崎出身の儒者で中国語に通ずる。『水滸伝』の翻訳のほか、『唐話纂要』『唐訳便覧』『華音唐詩選』などを著した。
上田秋成 江戸後期の文人・国学者。大坂に私生児として生まれ、紙油商上田氏の養子となる。賀茂真淵系の国学を学び、万葉集・音韻学にも通じ、本居宣長と大論争したことがある。作品には、読本『雨月物語』『春雨物語』のほか、浮世草子『諸道聴耳世間猿』や随筆『胆大小心録』などがある。
滝沢馬琴 本名は滝沢興邦、後に解。旗本に仕える下級武士の家に生まれた。父の死後、いったん武家奉公した。24歳で戯作を志し、山東京伝に弟子入りした。晩年失明したが、嫁を相手に口述で筆記を続け、『八犬伝』を完成させた。
(三)洒落本
洒落本は、遊里を素材にその風俗を描き、客と遊女との遊びの様子を、会話中心の文体で再現したものである。洒落本は単なる文学ではなく、評判・案内といった実用性も兼ねた。筋書きは簡単で、吉原や岡場所などの遊里を案内し、遊客の心得を説いた。吉原での一夜の遊興を書いた田舎老人多田翁の『遊子方言』(1770)は、会話体で精緻な風俗描写を見せ、洒落本の定型を確立した。
黄表紙の当たり作『江戸生艶気樺焼』を著した山東京伝は、その登場人物を用いて続編とも言える『通言総籬』(1787)を世に送り出した。実在の吉原の遊女屋松葉屋とその遊女をモデルとした作品である。京伝はそのほか、遊客と遊女との様々な関係を会話によって細かく描いた『傾城買四十八手』(1790)などの傑作も遺している。
しかし寛政の改革の時、京伝の洒落本が処罰され、また作品様式が行き詰まったこともあり、洒落本はやがて下火になった。
(四)滑稽本・人情本
滑稽本 滑稽本とは文字通り、滑稽な話を記した小説である。源流は
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宝暦年間(1751-64)に流行した談義本であるが、洒落本の会話体を受け継いだ。十返舎一九(1765-1831)は『東海道中膝栗毛』(1802-14)を発表して、たちまち人気を博した。弥次郎兵衛と北八(喜多八)が東海道を旅する途中に、失敗や滑稽を繰り返す道中記で、洒落を生かした会話体で描かれている。大好評のせいで、一九はその後も金毘羅参詣・宮島参詣と次々と続編を発表し、延べ12編の『続膝栗毛』を出版した。当時の庶民は、各地を旅する習慣がなかったため、そうした『膝栗毛』物はある種の旅案内の役割を果たしていたのである。
一九についで、式亭三馬も滑稽本を発表し、『浮世風呂』(1809-13)や『浮世床』(1811-25)などの傑作を世に送り出した。銭湯や髪結床を舞台に、江戸庶民の世間話を通して、彼らの生活と心情が生き生きと描き出した。
人情本 人情本は、江戸の世相と人々の恋愛生活を描いた恋愛小説である。舞台は遊里とは限らず、青年男女の恋愛関係を写実的な風俗描写とともに描き出し、恋にあこがれる女性を主な読者とした。為永春水(1790-1843)が代表的な作者で、『春色梅児誉美』(1832-33)などの作品がある。天保の改革で春水は風俗壊乱の理由で罰せられ、間も無く没した。以後、人情本は衰退したが、時代が下って明治期の文学に大きな影響を残したとされる。
談義本 談義とはもともと仏教の説法の意であった。談義僧は世相を諷刺する滑稽な話を民衆に平易に説き聞かせ、評判となった。その談義の影響を受けて発生した、滑稽の中に教訓を託した通俗小説である。
第三節 貸本文化
江戸時代は、本が高価なため、個人で本を買うわけではなかった。そこで貸本屋で本を借りるのが主流であり、一般庶民はよく利用していた。貸本屋は江戸前期の寛永年間(1624-44)から、仮名草子など民衆向けの書物の出版とともに発達した。そして、元禄期から活動が本
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格化し、近世中期の正徳・享保ごろには全国に広まった。19世紀はじめの記録では、江戸には656人、大坂には300人くらいの貸本屋がいたという。さらに、天保年間(1830-44)には江戸の貸本屋は800人にも達した。
貸本屋は、大ぶろしきに本を包んで背負って、得意先を回った。読本や滑稽本、そして洒落本、人情本など、様々な読み物を扱った。料金は購入価格の5分の1から8分の1ということだったから、人々は気軽に好きな本を手に取って読むことができた。後に市中に店を構えて、借り手が来るのを待つ貸本屋も増えた。
貸本文化は文化文政期(1804-30)に隆盛を迎え、庶民の本に親しむ習慣がさらに浸透していった。江戸時代を通じて、貸本屋は人々の教養と娯楽に大きく貢献した。
第四節 近世の民間信仰と新興宗教
寺社・霊場の巡礼 江戸時代に入ると、商業と交通の発達とともに、寺社、霊場への参詣や巡礼が盛んとなり、各地に巡礼の札所(参詣の印として札を納める寺堂)が作られた。当時西国三十三カ所、坂東三十三カ所、秩父三十四カ所、そして西国八十八カ所などの霊場をめぐって歩く巡礼が盛んになった。また、伊勢信仰も盛んで、御蔭参りと呼ばれる伊勢神宮への集団参詣が流行した。近世には、山岳信仰の講が発達し、山へ登拝した。また、富士山は古くから山神の住処として信仰され、近世には町人や農民に人気があった。そして、木曾御嶽の神は火事を防ぐのにご利益があると言われたので、広く信仰を集めた。江戸時代後期に、山岳信仰の中で、富士信仰と木曾御嶽信仰は目覚ましい発展を遂げた。
現世利益の信仰 近世では、幕府は社会秩序を維持するために、キリスト教を禁圧した。また、寺請制度を定めて、すべての民衆を寺院に所属させ、仏教と神道を厳しく統制した。そのために、民間では、
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家内安全、商売繁盛、病気治癒、厄除けなどの現世利益の信仰が流行して、稲荷、金毘羅、不動(明王)、七福神などの現世利益神を祀る寺院、神社がにぎわった。
その中でも、稲荷は五穀豊穣、商売繁盛をもたらす神として最も広く信仰された。金毘羅は海上交通の安全を守る神として信仰を集めた。が、不動は強い霊威を持つ現世利益神として信仰された。それから、弁天、大黒天、恵比寿、毘沙門天、布袋、福禄寿、寿老人の七福神は、海の彼方から宝船に乗って訪れてくると信じられていた。日本では、正月2日に宝船の絵を枕の下に入れて眠ると、めでたい夢が見られると、江戸時代から言い伝えられてきた。
新興宗教の成立 19世紀になると、新興宗教が相次いで成立した。1802(享和2)年に、一尊如来きの(1756-1826)は、創造主如来が民衆を救うために金毘羅をこの世に遣わしたと説き始め、如来教を開いた。続いて1814(文化11)年に、禰宜黒住宗忠(1780-1850)は、天照大神が宇宙を創造し万物を育てた神であると説いて、黒住教を開いた。そして1838(天保9)年に、中山みき(1798-1887)は天理王命が人間世界を創造し人間を救済すると説き、天理教を開いた。さらに1859(安政6)年に、川手文治郎(1814-83)は天地金乃神の信仰を説き、金光教を開いた。
これらの新興宗教は、いずれも病気治癒などの現世利益を強調し、近世の仏教と神道には求められなかった人間本位の信仰を説いたので、広く農民や商工民の心をとらえた。
(文責:田世民)
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【確認してみよう】
一、次の文章を読み、正しいものを下記から一つ選びなさい。
- 19世紀に入った幕末に、開港した横浜の異国的な風俗を描写したのは(a. 開港絵、b. 横浜絵、c. 文明絵)である。
- 17世紀前半から中ごろにかけて、はやっていたのは(a. 仮名草子、b. 浮世草子、c. 枕草子)である。
- 黄表紙の代表作『金々先生栄花夢』は(a. 朋誠堂喜三二、b. 恋川春町、c. 山東京伝)の作品である。
- 合巻の代表作である柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』は、将軍(a. 家康、b. 家綱、c. 家斉)の大奥生活を諷刺したものとして、天保の改革において処罰されて絶版となった。
- 江戸時代、民間では現世利益神を祀る寺院や神社がにぎわった。中でも、(a. 稲荷、b. 金毘羅、c. 七福神)は五穀豊穣、商売繁盛をもたらす神として最も広く信仰された。
二、次の文章を読み、空欄に適切な言葉を入れなさい。
- 江戸時代に入って、戦国時代のような無常の世を意味する「憂き世」からこの世を謳歌する生き方を示す( )へと、世界観が転換してきた。
- 鈴木春信は紅摺絵の技術をもとに、1765年に版木を摺り重ねる技術を開発し、多色摺版画を作った。その豪華な美しさから( )と呼ばれ、後に浮世絵版画の代表的名称となった。
- 井原西鶴が1682年に刊行した浮世草子( )は評判となり、その後西鶴は数々のベストセラーを量産していった。
- 儒学者で荻生徂徠とも親しかった岡島冠山によって翻訳がなされたこともあって、以後( )は読本の主要な素材の一つとして親しまれていた。
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- 1859(安政6)年に、川手文治郎(1814-83)は天地金乃神の信仰を説き、( )を開いた。
三、次の文章を読み、設問に答えなさい。
- 今日、派手な色で人の目を奪う浮世絵は美術品として名高い。では、江戸時代には浮世絵はどのような商品だったのか、考えてみてください。
- 仮名草子とは、どのような小説なのか、その名称と内容について考えてみてください。
- 表紙の色や製本の仕方によって、草双紙(絵草紙)にはどのような種類があるのか、考えてみてください。
- 合巻はなぜそのように呼ばれたのか、そしてその内容は主にどのようなものだったのか、考えてみてください。
- 19世紀に入って、たくさんの新興宗教が登場し、民衆の心を捉えた。その理由について考えてみてください。
参考文献
家永三郎 『日本文化史 第二版』、岩波書店〈岩波新書〉、1982年
深谷克己 「日本の歴史6、江戸時代」、岩波書店〈岩波ジュニア新書〉、2000年
秋山虔、三好行雄 『原色シグマ新日本文学史』、文栄堂、2000年
小林忠 「浮世絵の変遷」、『週刊朝日百科78、日本の歴史』、朝日新聞社、2003年
大石学 『大江戸まるわかり事典』、時事通信社、2005年
倉地克直 『江戸文化をよむ』、吉川弘文館、2006年
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